「廣島一夫さんの仕事」展で小川鉄平さんのお話しを聞いてきました。![c0033636_23441352.jpg]()
地元のご婦人方(竹細工資料館の鍵を開けてくださった商工会の方)に「てっぺいちゃん、てっぺいちゃん。」と息子か孫のように親しみを込めて呼ばれ、話しっぷりも地元そのものだけれど、もともとは「カルイ」と呼ばれる背負い籠(写真)が作りたくて名古屋からやってきたとのこと。
そこで、長年「カルイ」を専門に作られていた飯干五男さんに弟子入りする。3年後に独立。廣島一夫さんにも知り合うことになるが、修行時代は世間話をする程度だったとのこと。
小川鉄平さんのことは対談相手の稲垣さんも「鉄平くん」と呼んでいました。
井上克彦さんのことは「井上さん」と呼んでいたのに。
これは2人の性格の違いと6歳の年齢差からくるものと思われます。
生真面目な井上さんに対して、小川さんは人懐っこい印象を受けました。
ということでここでは私も「鉄平さん」と書かせてもらいます。
鉄平さんが日之影へ現れたのは、井上さんに遅れること約1年。
2000年の5月のことでした。
その時はまだ廣島さんの存在を知らず、
カルイが作りたくて飯干五郎さんを訪ねていったのですが、
日之影に入ってすぐカルイを背負ったおばあさんに出合い、
飯干さんの家を尋ねたら、
なんとそこは廣島さんの家だったという出会い:笑
だから廣島さんに弟子入りを願ったことはない。
カルイが作りたくて2001年から飯干さんの下で3年修行をして、
その間にだんだんと竹細工全体が好きになったということらしい。
修行中も廣島さんを度々訪ねたが、それは主に話を聞くためでした。
廣島さんはけじめを重んじる方で、
いつも「あんたは飯干さんの弟子だから」と釘を刺された。
当時25歳の鉄平さんはそういうことにも無頓着だったので、
「きっと自分に教えてくれていたんだと思う」と語っていました。
とのかく廣島さんは話し上手で人を惹きつける。
だから竹の話しでなくても、遊びに行って話を聞くのが楽しかった。
行くと必ず何人か人が来ていて、そんなじいさん、
ばあさんとばかり話をしていたので
鉄平さんの日之影弁は筋金入りらしく、青年団でも「オヤジのようだ」と驚かれ
小学生に至っては日之影弁の「先生」になってしまうらしい:笑
修行が明けて、初めて廣島さんに教えてもらって作った「ショウケ:笊」
![c0033636_0273113.jpg]()
「だいぶ廣島さんの手が入ってます」
中央の白っぽい一筋は、隙間ができてしまったので後から付け足したもの。
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横から見て、縁が歪んでいないかなど注意する点は多多あるよう。![c0033636_0275917.jpg]()
改めて全体を撮り美しさに驚きました。
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こちらは自作で愛用の籠、8年くらい使っているもの。飴色に育っています。![c0033636_023994.jpg]()
こちらは平岡丑松さん、通称「丑どん」のショウケ。
![c0033636_0231964.jpg]()
廣島さんは修業時代にたった一度会った「丑どん」を
生涯の目標として非常に尊敬していたそうです。
「丑どん」は日露戦争で勲章をもらったということ以外、
ほとんど経歴も分からずいつもその日暮らし、
財産も名前も残さずショウケだけを残した丑どん。
行く先々で丑どんの竹細工に出合い、修理してその技を知り、
いつかこういう仕事を、と思っていたらしい。
でも時々「こればっかりは丑どんもやっとらんじゃろう」と笑いながら
自分の工夫を話すこともあったっそうです。
廣島さんの仕事場に埃を被って眠っていた茶通し。
![c0033636_0233518.jpg]()
使い込まれて破れているところをみると、
持ち主から廣島さんのところに戻って来たものかもしれない、
自分でもよくできたと思って残しておいたのではないだろうかと鉄平さん。
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いちばん気を使う「縁巻き」が見事。
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破れてもなお気品が漂う…
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廣島さんの仕事が消えようとしていた20世紀の終わりに、
どこからともなく現れた2人の青年によって
廣島さんの技や人柄が次の世代に引き継がれました。
さて、これからどうなっていくのか。
使い手である私たちにもその問いは向けられていると思います。
ギャラリーKEIANでの展示も残すところあと4日。
11月10日(木)~13日(日)
11:00~18:00
1982年に放送されたNHKの「日本の心-竹細工に生きて」と
「ショウケができるまで」小川鉄平(スライドショー)が見られます。
時間を十分にとってお出かけ下さい。
心残りの無きよう。

地元のご婦人方(竹細工資料館の鍵を開けてくださった商工会の方)に「てっぺいちゃん、てっぺいちゃん。」と息子か孫のように親しみを込めて呼ばれ、話しっぷりも地元そのものだけれど、もともとは「カルイ」と呼ばれる背負い籠(写真)が作りたくて名古屋からやってきたとのこと。
そこで、長年「カルイ」を専門に作られていた飯干五男さんに弟子入りする。3年後に独立。廣島一夫さんにも知り合うことになるが、修行時代は世間話をする程度だったとのこと。
小川鉄平さんのことは対談相手の稲垣さんも「鉄平くん」と呼んでいました。
井上克彦さんのことは「井上さん」と呼んでいたのに。
これは2人の性格の違いと6歳の年齢差からくるものと思われます。
生真面目な井上さんに対して、小川さんは人懐っこい印象を受けました。
ということでここでは私も「鉄平さん」と書かせてもらいます。
鉄平さんが日之影へ現れたのは、井上さんに遅れること約1年。
2000年の5月のことでした。
その時はまだ廣島さんの存在を知らず、
カルイが作りたくて飯干五郎さんを訪ねていったのですが、
日之影に入ってすぐカルイを背負ったおばあさんに出合い、
飯干さんの家を尋ねたら、
なんとそこは廣島さんの家だったという出会い:笑
だから廣島さんに弟子入りを願ったことはない。
カルイが作りたくて2001年から飯干さんの下で3年修行をして、
その間にだんだんと竹細工全体が好きになったということらしい。
修行中も廣島さんを度々訪ねたが、それは主に話を聞くためでした。
廣島さんはけじめを重んじる方で、
いつも「あんたは飯干さんの弟子だから」と釘を刺された。
当時25歳の鉄平さんはそういうことにも無頓着だったので、
「きっと自分に教えてくれていたんだと思う」と語っていました。
とのかく廣島さんは話し上手で人を惹きつける。
だから竹の話しでなくても、遊びに行って話を聞くのが楽しかった。
行くと必ず何人か人が来ていて、そんなじいさん、
ばあさんとばかり話をしていたので
鉄平さんの日之影弁は筋金入りらしく、青年団でも「オヤジのようだ」と驚かれ
小学生に至っては日之影弁の「先生」になってしまうらしい:笑
修行が明けて、初めて廣島さんに教えてもらって作った「ショウケ:笊」

「だいぶ廣島さんの手が入ってます」
中央の白っぽい一筋は、隙間ができてしまったので後から付け足したもの。

横から見て、縁が歪んでいないかなど注意する点は多多あるよう。

改めて全体を撮り美しさに驚きました。

こちらは自作で愛用の籠、8年くらい使っているもの。飴色に育っています。

こちらは平岡丑松さん、通称「丑どん」のショウケ。

廣島さんは修業時代にたった一度会った「丑どん」を
生涯の目標として非常に尊敬していたそうです。
「丑どん」は日露戦争で勲章をもらったということ以外、
ほとんど経歴も分からずいつもその日暮らし、
財産も名前も残さずショウケだけを残した丑どん。
行く先々で丑どんの竹細工に出合い、修理してその技を知り、
いつかこういう仕事を、と思っていたらしい。
でも時々「こればっかりは丑どんもやっとらんじゃろう」と笑いながら
自分の工夫を話すこともあったっそうです。
廣島さんの仕事場に埃を被って眠っていた茶通し。

使い込まれて破れているところをみると、
持ち主から廣島さんのところに戻って来たものかもしれない、
自分でもよくできたと思って残しておいたのではないだろうかと鉄平さん。

いちばん気を使う「縁巻き」が見事。

破れてもなお気品が漂う…

廣島さんの仕事が消えようとしていた20世紀の終わりに、
どこからともなく現れた2人の青年によって
廣島さんの技や人柄が次の世代に引き継がれました。
さて、これからどうなっていくのか。
使い手である私たちにもその問いは向けられていると思います。
ギャラリーKEIANでの展示も残すところあと4日。
11月10日(木)~13日(日)
11:00~18:00
1982年に放送されたNHKの「日本の心-竹細工に生きて」と
「ショウケができるまで」小川鉄平(スライドショー)が見られます。
時間を十分にとってお出かけ下さい。
心残りの無きよう。