少し時間が空いてしまいましたが、「本で床は抜けるか」の続きです。
ある日町の図書館へ行くと「新しく入った本」というコーナーに
沢木耕太郎の『夢ノ町本通り』がありました。
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あら沢木耕太郎の新刊本、と思って内容も確認せずに借りてきました。
幼少期から現在に至るまで、無数の本との出会いを綴る豊潤な36編。26歳の時に書いた単行本未収録のエッセイ「書店という街よ、どこへ?」も初収録!
この本、私の予想していた内容とは少し違いましたが、
冒頭の「本を買う」という章で、
沢木耕太郎がかつて経堂に事務所を構えていたことを知りました。
それがいつごろのことかはっきり書かれてはいませんが、
事務所は駅の近くで、午前の仕事えて昼食に出かけた後、
散歩かたがた本屋をめぐり仕事へ戻るというのが日課だったそうで、
よく立ち寄ったのがスズラン通り商店街の古書店・遠藤書店でした。
そこで時々店主と話し込んでいる植草甚一(J・J氏)を見かけたそうです。
とはいえ、店主やJ・J氏に声をかけるわけでもなく、
店内の棚をみて「あの本がまだある」とか「おや新しい本が」と
眺めては買ったり買わなかったり…
遠藤書店は「貌のある本屋」と書かれています。
私たちも経堂に住んでいたころ、遠藤書店がすぐ近所だったので、
よく通っていました。
いまも本棚にあるこちらの本、Manbowのものですが、
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内容を確認してから「一箱本屋」に出そうかと思ったのですが、
なんとこれが遠藤書店で購入したものでした(ということでしばし保留!)
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閑話休題
この本の最終章「本を売る」」にJ・J氏の蔵書にまつわる話が出てきます。
J・J氏こと植草甚一は1979年12月に亡くなったのですが、
長らく小田急線の駅ビルともいうべき「経堂アパート」に住んでいました。
しかもそこに部屋を3区画持っていて、一つを住居に、
残りの二つを書庫としていたというから、蔵書の量たるや推して知るべしです。
亡くなって一年ほど経ったころ、その建物の前を通りかかった沢木は、
ロビーに大量の洋書が積み上げられているのを見かけます。
これはもしかしたらJ・J氏の蔵書ではないかと思って、
管理人に聞くとまさにその通りだったのです。
あらかたの本は知人や業者の手によって整理されたのですが、
どうしても引き取り手のない嵩張る雑多な洋書は行き先が決まらず、
焼却処分のため山積みされていたのです。
生前、J・J氏と個人的な付き合いはなかった沢木ですが、
あのJ・J氏の本が焼却処分されるというのはさすがに忍びないと思って、
深い考えもなしに引き取ると申し出てしまいます。
しかし苦労して事務所に運び込んでから中身を確認すると、
ほとんどが大型ハードカバーのミステリーやホラーで、
ペーパーバック版が出てしまうと「厄介者」になるような本ばかりでした。
さらに数年が経つと、沢木の事務所も資料の本で埋まってしまい、
当面必要のない本を倉庫に預けることにしました。
保管料がかなり安く、引き取りに来てくれるという条件に惹かれて、
茨城県のある業者に依頼します。
そこに預けて7~8年が経った頃、
業者の都合で保管料が月払いから年払いに変更になりました。
それがある年、支払い時期になっても請求書が来ません。
来ないなぁと思いつつもその年は仕事に追われてすかかり忘れてしまい、
翌年、2012年3月になっても請求がなく、
さすがに心配になって電話をしましたが、通じません。
茨城県ということでピンとこなかったけれど、
もしかしたら東日本大震災で被災したのかもしれない、
または倒産して、本は売り払われてしまったのかもしれない……
預けた数千冊の本の行方はとうとう知ることができませんでした。
そしてさらに何年か経って、またまた本が増えてしまい、
こんどは名の知れた会社で仕事場の近くの倉庫に本を預けます。
それも数年すると保管料が負担になってきてついに本の処分を決心します。
預けている間、一度も読むために取りにいかなかったことを考えると、
手元になければないでどうにかなると考えるようになったためです。
事務所に残すのは3つの本棚の分だけと決めて、
処分する本を仕分けているうちに、思いがけずJ・J氏の本を目にします。
そう、あの時引き取った洋書の一部で、
読んでみようと思って手元に置いた数冊の本でした。
沢木はその時、J・J氏の本のほとんど(1,000冊ほど)を
あの茨城の倉庫に預けておいたことを思い出したのです。
救い出したと思っていた本は、10年ほど生き延びただけで、
結局行方知れずになってしまったわけです。
そしてあの時のロビーに山積みされたJ・J氏の本の光景が蘇り、
自分の本は体力のあるうちに自分で整理をする決意を強くしたとのこと。
この本の話は「あるとき」とか「当時」とか書かれていて、
いつの事なのかはよくわからないのですが、
最後に「本を売る」」決心をしたのは2023年なので、
「本で床は抜けるか」の著者は知る由もないエピソードでした。![_c0033636_10313736.jpg]()
ある日町の図書館へ行くと「新しく入った本」というコーナーに
沢木耕太郎の『夢ノ町本通り』がありました。

あら沢木耕太郎の新刊本、と思って内容も確認せずに借りてきました。
幼少期から現在に至るまで、無数の本との出会いを綴る豊潤な36編。26歳の時に書いた単行本未収録のエッセイ「書店という街よ、どこへ?」も初収録!
この本、私の予想していた内容とは少し違いましたが、
冒頭の「本を買う」という章で、
沢木耕太郎がかつて経堂に事務所を構えていたことを知りました。
それがいつごろのことかはっきり書かれてはいませんが、
事務所は駅の近くで、午前の仕事えて昼食に出かけた後、
散歩かたがた本屋をめぐり仕事へ戻るというのが日課だったそうで、
よく立ち寄ったのがスズラン通り商店街の古書店・遠藤書店でした。
そこで時々店主と話し込んでいる植草甚一(J・J氏)を見かけたそうです。
とはいえ、店主やJ・J氏に声をかけるわけでもなく、
店内の棚をみて「あの本がまだある」とか「おや新しい本が」と
眺めては買ったり買わなかったり…
遠藤書店は「貌のある本屋」と書かれています。
私たちも経堂に住んでいたころ、遠藤書店がすぐ近所だったので、
よく通っていました。
いまも本棚にあるこちらの本、Manbowのものですが、

内容を確認してから「一箱本屋」に出そうかと思ったのですが、
なんとこれが遠藤書店で購入したものでした(ということでしばし保留!)

閑話休題
この本の最終章「本を売る」」にJ・J氏の蔵書にまつわる話が出てきます。
J・J氏こと植草甚一は1979年12月に亡くなったのですが、
長らく小田急線の駅ビルともいうべき「経堂アパート」に住んでいました。
しかもそこに部屋を3区画持っていて、一つを住居に、
残りの二つを書庫としていたというから、蔵書の量たるや推して知るべしです。
亡くなって一年ほど経ったころ、その建物の前を通りかかった沢木は、
ロビーに大量の洋書が積み上げられているのを見かけます。
これはもしかしたらJ・J氏の蔵書ではないかと思って、
管理人に聞くとまさにその通りだったのです。
あらかたの本は知人や業者の手によって整理されたのですが、
どうしても引き取り手のない嵩張る雑多な洋書は行き先が決まらず、
焼却処分のため山積みされていたのです。
生前、J・J氏と個人的な付き合いはなかった沢木ですが、
あのJ・J氏の本が焼却処分されるというのはさすがに忍びないと思って、
深い考えもなしに引き取ると申し出てしまいます。
しかし苦労して事務所に運び込んでから中身を確認すると、
ほとんどが大型ハードカバーのミステリーやホラーで、
ペーパーバック版が出てしまうと「厄介者」になるような本ばかりでした。
さらに数年が経つと、沢木の事務所も資料の本で埋まってしまい、
当面必要のない本を倉庫に預けることにしました。
保管料がかなり安く、引き取りに来てくれるという条件に惹かれて、
茨城県のある業者に依頼します。
そこに預けて7~8年が経った頃、
業者の都合で保管料が月払いから年払いに変更になりました。
それがある年、支払い時期になっても請求書が来ません。
来ないなぁと思いつつもその年は仕事に追われてすかかり忘れてしまい、
翌年、2012年3月になっても請求がなく、
さすがに心配になって電話をしましたが、通じません。
茨城県ということでピンとこなかったけれど、
もしかしたら東日本大震災で被災したのかもしれない、
または倒産して、本は売り払われてしまったのかもしれない……
預けた数千冊の本の行方はとうとう知ることができませんでした。
そしてさらに何年か経って、またまた本が増えてしまい、
こんどは名の知れた会社で仕事場の近くの倉庫に本を預けます。
それも数年すると保管料が負担になってきてついに本の処分を決心します。
預けている間、一度も読むために取りにいかなかったことを考えると、
手元になければないでどうにかなると考えるようになったためです。
事務所に残すのは3つの本棚の分だけと決めて、
処分する本を仕分けているうちに、思いがけずJ・J氏の本を目にします。
そう、あの時引き取った洋書の一部で、
読んでみようと思って手元に置いた数冊の本でした。
沢木はその時、J・J氏の本のほとんど(1,000冊ほど)を
あの茨城の倉庫に預けておいたことを思い出したのです。
救い出したと思っていた本は、10年ほど生き延びただけで、
結局行方知れずになってしまったわけです。
そしてあの時のロビーに山積みされたJ・J氏の本の光景が蘇り、
自分の本は体力のあるうちに自分で整理をする決意を強くしたとのこと。
この本の話は「あるとき」とか「当時」とか書かれていて、
いつの事なのかはよくわからないのですが、
最後に「本を売る」」決心をしたのは2023年なので、
「本で床は抜けるか」の著者は知る由もないエピソードでした。
